ようこそ ゲスト 様

旭川家具について

最高の無垢材の選定と、進化した伝統技術。

旭川の家具産業の発展が資源立地型であり、特にナラ材ほか優れた家具材に恵まれていることが発達の一因であることは間違いありません。原野資源に恵まれていることは必要条件ですが、発達理由の一部に過ぎません。
北海道において、優れた素材を入手できるところはいくらでもあります。旭川のみが全国にその名をはせる家具の名産地になったのは何故でしょうか。ハイセンスな家具を世界に提供しているデンマーク。その国土は氷河で削られた荒地で、最高山はスカイ・マウンテンで標高147メートル、国土の可耕地は皆農牧に利用され、森林や木材とは無縁な国です。優秀な原料の得やすいことは、大切な条件です。しかしより重要なことは、素材に働きかける意思と行動力、創造力といってもよいのではないのでしょうか。このような力こそ産地形成の原動力となっているように思われます。
明治末期、本州から旭川へ大工や家具建具職人達が数多く移住してきました。豊富な木材と腕のいい職人に恵まれ、大正9年には大正時代最高の生産額に達しました。精米業、全道の4分の1を生産する清酒醸造業と共に、木材加工業は旭川の3大産業の一つに成長し、北海道最大の木工の町となったのです。これは恵まれた木材資源の活用に着眼し、工業化を計った市政の成功を示すものでありました。
しかし大正9年(1920年)を頂点に、襲い来る世界的な不況は木工生産の急速な低下をもたらしたのです。そこで木材集散地のメリットを活かし、良質の木を素材に丁寧につくり続けてきた実績が本州市場でも評価され、1970年代から「旭川家具」のブランドネームが全国に定着し、海外への進出もすすんでいます。3年毎に開催される「国際家具デザインフェア旭川」は、世界中から優れた家具を集めて行うデザインコンペティションをメインとし、各国の若手デザイナーから注目を浴びています。

素材

最高級の素材がここに集結。

家具の多くは木製のため、代表的な家具産地のほとんどは木材の産地でもあります。大間の最高級まぐろ、地中海のクロマグロ、これらは東京築地市場でみかけます。そう東京築地市場は、最高級のまぐろ達が集まる日本最大級の卸売市場です。
では、クロマグロが海のダイヤと言われておりますが、高級家具材はどうでしょう? 例えばこちらも家具材のダイヤといっても過言ではない、「アメリカンブラックウォールナット」。これらの多くは北海道旭川に集まってくるのです。いわば高級家具材の集積地まぐろの築地、家具材の旭川なのです。

技術
匠の技術と誇り。
膨張や収縮などの狂いが生じにくい良質な材料こそが、完璧な家具作りの第一歩。乾燥した風土の北海道は、湿度を嫌う木材にとって格好の保管場所です。それでも、品質管理をきちんとしないと割れやひびなどが生じます。この乾燥の工程も職人たちのこだわりと誇りであり、最も大切にしているプロセスでもあります。
そして旭川家具への評価として「職人の高い技術力」があげられます。若手技術者が腕を競う「技能五輪全国大会」の家具部門で1964年以降、毎年多くの入賞者を輩出。また三年に一度行われる「国際家具デザインフェア旭川(IFDA)」の受賞作品も製品化され、地元の家具メーカーにも大きな刺激となっています。
デザイン
デザインの追及。
日本有数の家具産地の一つ旭川市は北海道のほぼ中央にある北海道第二の都市です。最近は旭山動物園が脚光を浴び、全国的に知られる町となりました。
そんな旭川家具のデザインは、北欧の家具デザインと共通する点が多くみられます。それは寒冷地の限られた素材を使用するためだといわれています。素材を大切にし、生活に根ざした北欧の家具づくりのマインドが、旭川の家具にも流れています。そうして、家具業界やデザイン業界に広く認知され日本独自の精神性で評価を得るようになりました。
1890年(明治23年)
旭川開拓と家具の需要
明治23年、この年から北海道旭川村の開拓が始まり、たくさんの人が続々入植してきました。それに伴い住居や家具の需要も高まり、開拓を担う屯田兵の他に住居や家具を生産する木工職人も数多く増えました。大正に入り冷害が続いたことを受け、天候に左右されない産業として木工業に注目が集まり、技術力向上のために木工品伝習所が開設され、産業視察や木工展示会などが盛んに行われました。これらの取り組みにより、旭川での木工品生産額は1920年、大正9年までに37.7倍にまで拡大しました。
1928年(昭和3年)
大戦による旭川家具の低迷
地域の発展とともに伸び続けた旭川の家具産業ですが、二つの大戦により足止めを余儀なくされます。労働力の不足や、贅沢品の生産と販売を抑制する七・七禁法、家具30品目の公定価格制定による自由競争の禁止などにより、家具を売ることも買うこともままならなくなります。この状態は第二次世界大戦が終結する1945年、昭和20年まで続き、旭川家具の歴史の中の暗黒期として位置づけられています。
1975年(昭和50年)
戦後の旭川家具の復興
終戦後、旭川にやってきた進駐軍へ向けた家具の生産が始まり家具製造が少しずつ回復していきます。昭和24年には当時の商工省より全国の伝統的な有名家具産地十二地域のひとつに選ばれ、重要木工集団地区に指定されました。その後、全国的な経済成長とともに、木工芸指導所(現工芸センター)や北海道庁立旭川公共職業補導所(現道立旭川高等技術専門学院)などの後進を育てるための施設が開設され、さらに旭川家具工業協同組合など多くの組合も起こり、家具製造業は旭川での主要産業へと成長していきました。
1990年(平成2年)
国際化時代の旭川家具
戦後の高度成長期を経て、旭川家具は新たな改革を行います。それまで箱物と呼ばれる収納家具、特に婚礼箪笥の製造が盛んでしたが、国民の生活が西洋風へと変化したことを受け、脚物の椅子やテーブルを製造し始めます。また家具に対するデザイン重視の傾向が高まり、デザインシンポジウムや国際デザインフォーラムが開かれます。そして1990年、現在も続く世界的な家具デザイナーの登竜門といわれる、国際家具デザインコンペティション旭川(IFDA)の第一回目が開催されました。
お電話でのお問い合わせも受け付けております。 年中無休 9:00~17:00 0800-800-8334